豊後刀とは
中津・宇佐地域を除く大分県各地で製作された刀剣類を豊後刀と呼びます。豊後刀と言えば、鎌倉時代初期に多くの名刀を生んだ行平(豊後国行平)が有名です。
豊後では、江戸時代に藩が置かれた府内(大分)・杵築・日出などにも刀鍛冶の存在が知られていますが、それより古い時代には大友氏の豊後支配に伴って製作が始まった大分市東部、鶴崎の高田地区(高田庄)が繁栄しました。高田地区での刀剣の生産は、大友氏支配の時代(鎌倉~室町時代)から肥後熊本藩支配の江戸時代終わりまで、非常に長期に渡っています。
記録に残る豊後の刀鍛冶の人数は942人と全国第6位。その大半が高田鍛冶でした。そのため豊後刀と言えば「高田もの」というイメージが出来上がっていきました。
大友時代の「高田もの」は大友軍団を支えた武器であり、外貨稼ぎの重要な資源でした。このため「高田もの」はどちらかというと、実用に重きを置いた刀剣として造られました。
ところが、江戸時代になると大友氏による厳しい統制はなくなりましたが、今度は商品経済の波に直面します。天下泰平の世になり、実用一点張りでは売れないので肥前刀を目標に美しさを追求する脱皮が始まります。
その結果、貞行・実行・忠行など、どうにか全国レベルに達した刀匠が出てきますが、現代においてもなお「高田もの=実用刀」のイメージが付きまといます。
「豊後刀を見直そう!」 今、地元では静かな運動が起こっています。